風呂キャンセル界隈も肯定の言葉『生きる言葉』俵万智

「稀代の歌人」という触れ込みに惹かれた。言葉を繰る人がどのように言葉について語るのか。筆者の周辺に巻き起こる暮らしや育児を通した、現代の言葉の観察日記、時事評論である。とはいえ「サラダ記念日」以外の作品や著作を知らず、読みながらプロフィールを知る。 序盤、息子さんの育児に関する部分では、途中何を読んでいるのか不思議な気分になった。息子さんへの惚気のような母の想いが溢れた文章に、読み始めた当初の目的を見失った。ただ通読して思うのは、サラダ記念日の「君」や息子さんなど、相手を思う気持ちの強さが著者の言葉を紡ぐエネルギー源なのだと感じた。相手を思うことは、相手を思う自分の心を掘ることであり、その結果としていくつかの言葉が生まれる。他者を表現する言葉のひとつとして秀逸だったのは「風呂キャンセル界隈」。俵万智は〇〇界隈という表現を、「一般的にはマイナス認定されていることを、現にあるものとして肯定する優しさが生んだ」と読む。ネットスラングもある種の包摂と捉えられるのだ。 読み進めていくうちに、言葉の使い方や叙述方法など少しテクニック的な知識を期待していた自分にも気付かされた(後半歌の詠み方で少しあった)。だがそれよりも、言葉に臨むときの姿勢というか、言葉それよりももっと手前にある日々の生活を慈しむ気持ちが肝要と知った。心が先に、言葉はその後だ。

2026年5月10日 · APE

世界を変革する文学部ってカッコいい『「感想文」から「文学批評」へ: 高校・大学から始める批評入門』小林真大

はじめに ブログ等で批評文のようなものを書くにあたり参考書として読んだ。文学批評というものの型とその趨勢、批評の意義がまとめられた入門書。文学批評の歴史はまるで繰り返される抗争のような物語に感じられた。今後作品の批評を読み書きする際にどの観点なのか考えていきたい。また、最も興味深かったのは終章の批評の存在意義だ。文芸批評が社会の価値感を左右するという点は、下手をすると陰謀論的にもなり政治的にもなる活動だ。個人的には穏健なイメージのあった文学部の印象が変わって面白かったが、文芸批評を通してどんなイデオロギーに一票を投じているのかより意識的になる必要があると感じた。 語られる批評の型とは、作者と作品と読者において、どの角度からそれを評価するかによって6種類に分類される。以降概要をまとめる。 作家論(作者重視) ニュークリティシズム(メッセージ重視) 読者論(読者重視) 構造主義(コード重視) イデオロギー批評(コンテクスト重視) メディアスタディーズ(接触重視) 作家論 作家論は、作品を通して作家の意図を解析するアプローチ。近代の個人主義から始まったが、ロラン・バルトが「作者というのは幻想」と痛烈に批判。作品の意図を決めるのは作家ではなく、作品の言葉そのものであり、言葉の構造=構造主義へと発展。一方、作品は社会的なイデオロギーに支配されているというイデオロギー批評、さらに作品の言葉を解釈しているのは読者であるという読者論。作家論の批判「作者の死」から様々な批評の型が生まれた。 構造主義 主に詩を対象としたニュークリティシズムという科学的な分析批評が40-50年代に隆盛し、60年代から個々の作品分析ではなく、あらゆる作品の共通したシステム(構造)を分析する構造主義が、ソシュールの言語学・記号論などをきっかけにはじまった。ロラン・バルトが物語の構造分析を発表し、従来の印象批評といった神秘的な領域に科学的な批評を導入、文学批評に多大な影響を与えた。しかし、ソシュール以降の構造主義は、文学作品の社会や歴史的な背景を無視しているという問題があった。 イデオロギー批評 ロシアの文学者ミハイル・バフチンが、ソシュールの理論が言語の規則にばかり注目していることを批判。言語は社会的状況と密接に結びついており、作品の背後にある利害や関心、イデオロギーを考えるきわめて政治的なアプローチである「イデオロギー批評」が生まれる。特に、作家の個人的な才能ではなく、当時の経済的、社会的階級、支配的イデオロギーが作品に反映されたものとみるマルクス主義批評が生まれるが、ソ連型といわれる硬直した考え方により退行。フランスの哲学者ルイ・アルチュセールなどによりポスト・マルクス主義へ発展していく。また、労働者階級のみに注目せず様々な社会的グループに目を向け、男女の視点からフェミニズム批評、民族の視点からポストコロニアル批評が生まれる。しかし、「労働者」「女性」「民族」という観点以外にもイデオロギー批評は当てはまるが、あくまで作品は作者の個人的な体験であり、ある集団のアイディンティティーを一般化するには限界があるという指摘もある。 読者論 コンスタンツ大学のハンス・ローベルト・ヤウスは、マルクス主義の文学批評を、当時の社会状況を反映した部分のみの批評に過ぎず、過去の文学作品に心を揺さぶられる魅力を説くことができないと非難。作品自体やテクストに注意を向けていた従来の理論に対して、「読者」という存在に注目した読者論を主張。読者の「期待の地平」を破壊し、価値観を変化させるような作品を、ヤウスは文学的な価値が非常に高い作品とみなす。しかし、人は価値観の更新のみに比重をおいて読むわけではなく、いつも通りの安心感を求めて小説を読むこともある。「真の作者は読者である」と考えた結果、作品そのものを客観的に解釈しづらい批判を受けている。ただ、作品の意味を考えるとき、作品だけでなく、読者だけでなく、作品と読者のコミュニケーションを考慮に入れる気付きからメディア論が文学批評に導入されることになった。 メディア論 媒体や手段といった意味のメディア。テレビや新聞のマスメディア、SNSなどのソーシャルメディアなどがあるが、メディア論から文学批評の研究範囲が広がった。作品を読むにしても、本の装丁や文章のフォント、余白など出版メディアや編集者のまざまな意図、要素を読者は読み取る。そのためメディアは作家、作品、読者へ影響力を持つが、読者はいつも作者や出版メディアの思惑通りに作品を受け取っているわけではない。 文学批評の存在意義 文学作品の好き嫌いは個人的なセンスの領域であれば、客観的な価値基準などそもそも存在しないのかもしれない。アメリカの哲学者ジョセフ・マーゴリスは、私たちの価値判断を「個人的なセンス」と「支配的なセンス」の二つのレベルに分けた。個人の好みである個人的なセンスを超えて、社会的に承認を得ている支配的な価値判断、つまり社会の多数派が下す評価を支配的センスとした。またそれは、社会の変化やと共に変わる続けるという点で、どこまでも「相対的」である。文学批評家の役割は、批評を通じて作品の価値を人々に伝え、その作品を支配的なセンスのレベルに高めることで、人々の価値観に不可逆的な影響を及ぼす。世界で初めて設立されたイギリスの文学部は、人々に特定のイデオロギーを植え付けコントロールしようという意図があった。批評家は文学作品の価値判断を行うことで、社会の価値観まで変えることもある。 最後に本書終盤の作家・丸谷才一の言葉から一部抜粋(P.231) 『演奏家とは、楽曲が持っている美しい音色を、すぐれた演奏技巧で人々に伝えることを専門にしている人たちのことです。演奏家と同じように、批評家にも作品のすばらしさをより多くの人々に伝える役割がある。』

2025年10月13日 · APE

『チ。―地球の運動について―』魚豊

15世紀前期のP王国というヨーロッパ風の国。架空の宗教C教が権威を持ち、宇宙の中心が地球である天動説を公認の学説とする。神の力を示す天動説に対して地動説は異端の教え。秩序を乱すものは処罰の対象であり、異端者はときに極刑にもなる。天文学の研究に高いリスクが伴うという舞台設定だが、史実では地動説を語るだけで火刑までにはならなかったようだ(地動説を含む異端を唱えて火刑になった人はいる)。だが、この極端な設定により、新たな知識を信じることに命をかける、そんな狂気が描きやすくなる。 地動説を信じる登場人物が放った「不正解は無意味を意味しない」という言葉が印象に残る。少し回りくどいが、不正解にも意味がある、と。それは、ある人の行動が正解か不正解かよりも、問うことそのものに意味がある、と捉えられる。『私の行動は誤りかもしれないが、この問いは新たな知性に貢献している』という確信がそこにある。積み重なってきた多くの問いの先に新たな知性が生まれる。イマココにあるあらゆる考えは先人の問いの積み上げであり、命の集積の結果ともいえる。そんな「思いのバトンリレー」が本作で鮮やかに描かれる。バトンは、夜更けから深夜、夜明け、朝焼けとまるで地球の運動のように巡る。 そのような知性が伝播するための装置として、文字や本という媒体も本作の大事なテーマだ。手書きのノートや本に加え、紙以外の媒体や活版印刷も登場し、地動説の研究が人から人へ伝わる。本を通して私たちは千年前の作者とも出会い、語り合い、友人になることもできる。当たり前のように思えるが、よく考えれば驚くべきことだ。そして、ある思想が社会に浸透し変化をもたらすには幾世代もの時間がかかる一方で、人の寿命はあまりにも短い。その隔たりをつなぎとめてくれるのが、まさに書物であり文字なのだ。文字を通して人は永遠の存在にもなれる。 地動説の確立を通して、あるアイデアや考えがどのように人々に伝播していったのか、それは例えばこんな物語だったかもしれない。本作はわずかなフィクションを交えつつ、人の思いの力強さを示す。「地球(を守る)」という言葉に「かんどう」というルビを振るシーンもあった。タイトルの「地球の運動」とは、文字通りの天体運動と同時に、この世の美しさに感動し世の中を突き動かす人々のことだ。 感想はぜひ Xのツイートへの返信 でお聞かせください。 更新情報をXで発信中。 フォローしていただければ励みになります。

2025年9月5日 · APE

『実力も運のうち 能力主義は正義か?』マイケル・サンデル

原題と邦題が違う例は映画でも本でもよくある。サンデルといえば『これからの正義の話をしよう』がベストセラーになったこともあり、邦題にあえて「正義」という言葉を足したのか。原題は The Tyranny of Merit: What’s Become of the Common Good 。直訳すると「功績主義の圧制――共通善はどうなってしまったのか」といった感じだ。Merit=功績。Meritocracy=功績主義。ただ、日本語では「能力主義」とも言われる。本書の内容からすれば「功績主義」が一番近いが、日本での文脈を考えると「能力主義」としたほうが通じやすい部分もある。どちらにせよ邦題はだいぶ意訳になっている。 出版は2020年9月。トランプ政権(2017〜2021)の末期で、トランプとバイデンの大統領選挙の直前だ。サンデルはポピュリズムの原因としてメリトクラシーを挙げる。もちろんブレグジットなど欧州の事例にも触れるが、中心はあくまでアメリカ政治、とりわけオバマ政権下の民主党の政策を批判している。 功績主義は「努力すれば成功できる。できないのは自己責任」という考えを押し出す。そのため大学学位の取得が強調される。結果として学位を得たエリートは「自分の努力の成果だ」と思い上がり、学位を持たない労働者は尊厳を失う。グローバル化のしわ寄せやアファーマティブアクションも絡み、白人中産階級が「自分たちは軽んじられている」と感じるようになる。この相互の反発が分断を深め、トランプ政権を生んだ。教育制度のあり方も批判されている。本来なら社会の流動性を高めるはずの大学が、むしろ階層の固定化に加担しているというのだ。SATのような試験は準備にお金をかけられるかどうかで結果が左右され、家庭の経済状況が学力評価に直結する。努力以前に「運」の要素が大きい。 ではどうすればいいか。サンデルは、一つの案として「入試をくじ引きにする」という大胆な仕組みを提示する。もちろん一定の学力ラインは必要だが、その上で選抜をランダムにすれば経済格差の影響を和らげられる。他にもコミュニティカレッジや職業訓練校の強化など、労働の尊厳を回復する方策が語られる。 トランプ政権に対しては批判的なメディア報道が多かった。建設的な批判というより、時に嘲笑に近いトーンもあった。ただ「なぜ彼が当選したのか」をきちんと理解する機会は少なかったように思う。本書を読むと、例えば政権がハーバード大学への助成金を止めようとした背景も見えてくる。メディアの評価もまた、学位を持つエリート層のフィルターを通したものだった可能性は否定できない。

2025年8月24日 · APE

『私たちが光と想うすべて』パヤル・カパーリヤー

薄暗い夜の街、路上販売や駅の雑踏、インド・ムンバイで暮らす人々のナレーションから始まる。電車で通勤するプラバはムンバイの病院に勤める看護師。仕事でドイツに行った夫から1年以上連絡がない。同居中のアヌは職場の後輩。アヌはヒンドゥー教徒だが、ムスリムの彼氏がいて職場で噂になっている。病院の食堂で働くパルヴァティは夫を亡くして久しい。しかし、長年住む家の居住証明書類に夫の名義しか無く、高層マンション建設のため立ち退きを迫られている。 プラバ、アヌ、パルヴァティと、3人の女性はそのままならなさに戸惑い、虚空や彼方を見つめる。何かがおかしい。なぜドイツに居る夫は電話すらしてこないのか?なぜ異教徒との恋愛はダメで親はお見合いを勧めるのか?なぜ名義が亡き夫だからといって住居から妻が追い出されるのか?大声をあげず、静かな沈黙で訴える。雨の多いムンバイの夜、部屋の窓からプラバが見つめる先には高層マンションやスラムの家々の街明かり。こちらの部屋にはない家族の生活が、遠く彼方の光にはあるのか。こちらが暗いほど、遠くの理想は輝いて見える。 パルヴァティはムンバイの家を引き払い、海が近い郊外の実家に引越す。プラバ、アヌも共に荷物を運び、日差しが溢れるバスで移動する。都会の夜のネオンと、郊外の昼の自然光が対照的だ。この郊外で、プラバはまるで口寄せのような夢か現実かわからない奇妙な体験を通して夫からの決別を果たす。目覚めたようなプラバは柔らかな微笑みで「彼を呼んで」とアヌに伝える。おとぎ話のお菓子の家のようなカラフルな電飾のほったて小屋で4人が出会う。その出会いと優しい会話を包むように星空が浮かぶ。それぞれの抑圧を脱したというよりも手を取り合ってそれを受け止めている。彼女ら自身がこれからを照らすひとつの希望の光となったのだ。後ろで踊る若い店員は、それを祝福する天使のようだ。

2025年8月7日 · APE

『ババヤガの夜』王谷晶

(ネタバレを含みますのでお気をつけください。) 英国ダガー賞を日本人で初受賞というニュースをきっかけに読んだ。作者の王谷晶さんのお名前も知らず、名前の読み方や性別も知らなかった。とはいえ、名前の読み方や性別がわかったからなんだというのか。 書評とネタバレについて、そもそもここに文章を書き連ねる理由まであれこれ考えさせられた。書評は作品のあらすじを書くに留めるべきか。この書評の読み手に作品を薦めるためなら、興味をそそる導入であるべきだ。だが、自分が読んで感じたことを言語化するための自分向けWebログの性格が強いと、ネタバレも含めて書き記したい。というか、書かざるを得ない。とはいえ、ミステリー小説の書評でいきなり犯人を示す愚はさすがに避けたい。そんな葛藤があるんだなと再認識した。ここまでの内容だけでも「ネタバレに気をつけるべき仕掛けがある」というネタバレを含んでいる。その伏線や読書体験が鮮やかだっただけに、これからの読者の体験を損なうことだけは気をつけたい。改めて書評の目的というか姿勢を整理すると、自分が読んだもの、感じたことをネタバレを気にせず書く。私が感じたことを既読者の方々と共有することで、その読者に共感や違和感という読後体験の奥行きが生まれれば幸いだ。 多勢のヤクザにも怯まないほど喧嘩の強い女・新道依子が、暴力団・内樹會の会長の一人娘・内樹尚子の護衛にスカウトされる。大学に通う尚子は、ひとり親の会長から生活全般を制限・監視され、学校以外の時間、服装に至るまで自由がない。尚子の母親は会長の部下だった「長ドスのマサ」と不倫の末に逃走中。依子と尚子のエピソードと並行して、芳子と正という二人暮らしの生活も語られる。共に白髪の二人は偶然、自動車事故の現場に遭遇、負傷者を救出したのち野次馬のカメラを避けるように逃げる。世間から距離を置く様子に、二人のただならぬ事情がうかがえる。芳子と正は、日本のどこかに逃走した尚子の母親とマサと思われる。依子と尚子は次第にお互いの状況や出生を理解し打ち解けていくが、尚子の母とマサの居場所が見つかったと一報が入り、会長は急ぎ刺客を送る。逃げる支度をする芳子と正の家に追手が迫る。芳子は必死に刺客と争うが、あれ?めっぽう強い。さすが会長の妻だから強いのかな?と思ったら、明かされる事実。芳子は40年後の新藤依子の姿だった!つまり、依子と尚子、芳子と正の2つのエピソードは場所=空間が異なった別人物ではなく、時間が異なった同一人物だった。内樹會から逃げた依子と尚子が、40年を経て芳子と正になっていった。尚子の読みは「なおこ」ではなく「しょうこ」だった。まるで同時進行のように語られていた芳子と正は、長ドスの「マサ」ではなく「しょう」だった。この名前の読み方を使った叙述トリックに気持ちよく足をすくわれた。 感心しながらも、さらに興味を覚えるのは英国ダガー賞だ。漢字の読み方を含むトリックに、どのように英語で応えたのか。また、オーディブルのような朗読メディアの場合、このレトリックは成立するのか?アクション映画のような本作、映像化も面白そうだが果たして可能か?などなど、叙述トリックから派生する様々な問題や疑問が頭をよぎるのも楽しい。 ババヤガとはスラブ民話での魔女のことらしい。明確には語られないが、暴力に異様に惹かれる依子という女が、鬼婆のような人外へ覚醒する物語とも解釈できる(依子というキャラクターは暴力シーンにこだわる作者の投影とも読める)。さらに、男女、夫婦、親子、兄弟姉妹といった名前のある関係性とは異なり、依子と尚子の女二人の40年の生活・関係に付ける名前はなく、もはや性別も名前すらも曖昧だ。愛ではないが深い絆を持ち、お互いを最も大事に考えている。ただ、「誰かの何かとして」はもう生きられない二人は、今の世間では生きづらい。そのカテゴリ外に居ることが、異端の者という意味での魔女・鬼婆であり、二人でそうなるために生まれてきたのだとも悟る。夜にこそババヤガは輝くのか、明けるべき夜もあるのだろう。

2025年8月2日 · APE

『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』黒川智之

物語は、ある日突如として異星から巨大な宇宙船が地球の空に現れるところから始まる。だが、その宇宙船との接触や交信は一切ない。ただそこに「あるだけ」の存在は、最初こそ異様だったものの、次第に人々に受け入れられ、やがては日常の一部となる。この“非日常が日常となった世界”で生きる少年少女たちの生活は、その平凡さゆえにかえって普遍性を帯び、観る者の共感を誘う。 (以下、ネタバレを含みます) 序盤、少女たちが語る作中漫画「イソベやん」が『ドラえもん』のオマージュであることに思わず心を掴まれる。秘密道具を「便利道具」と呼び変える点など、ドラえもんファンとしては微笑ましく感じる。だが、タケコプターやかくれマント、そして「もしもボックス」のような装置が登場するにつれ、物語は藤子・F・不二雄の「SF(すこし・ふしぎ)」の範疇を越え、だいぶ不思議で不穏な展開へと進んでいく。 門出(かどで)と凰蘭(おうらん)という印象的な名前を持つ二人の少女は、過酷な運命を背負って生きる。凰蘭は親友の門出を救いたい一心で、「もしもボックス」のような機械を使い、世界線を飛び越え、運命の修正を試みる。その結果、門出の運命は変わるものの、代償として異星人が地球を襲撃するという新たな惨劇が発生する。少女たちの強い友情が、地球全体を危機に晒す。言い換えれば、「たとえ世界中を敵に回しても、あなたの味方でいてくれる存在」が描かれているのだ。そうした無条件の肯定と承認が、誰にとっても当たり前に存在するべきだという願いが、物語の根底にあるように感じた。 このように複雑な構造のストーリーを、時系列を巧みに行き来しながらも理解しやすくまとめあげている点は見事である。また、鬼太郎やのび太、ガンダム、AKIRA、エヴァンゲリオンなど、さまざまな作品へのオマージュやパロディが随所に散りばめられており、自分が子供の頃から触れてきたサブカルチャー史を振り返るような、郷愁にも似た感情が湧いた。 ただし、目玉のおやじのような異星人たちが地球に移民してくる際の、大量虐殺を思わせる描写には強い違和感を覚えた。彼らは人間の子どもほどの小さな体格であり、視覚的には「子どもたちのジェノサイド」のようにも映ってしまう。もちろん、残酷な表現そのものが悪いわけではない。しかし、物語の中で暴力や残虐性に明確な意味や必然性が欠けていると、それらの描写は単なるショック効果を狙った“見世物”に堕してしまう危険がある。その結果、作品全体の印象を損ねてしまい、非常にもったいなく感じられた。

2025年2月28日 · APE

『あのこは貴族』岨手由貴子

ビルがひしめく東京の夜、タクシーが走る。その後部座席に座る華子。向かうのはホテルで催される家族の新年会。母親から華子への話題は結婚の催促や次のお見合いの話ばかり。27歳の華子の未来に結婚以外の選択肢は無いし、本人もそう信じている。伴侶探しに奔走する華子は、良家の子息である青木幸一郎とお見合いし、この人ならと高揚する。二人の会話に上る映画『オズの魔法使い』は、少女ドロシーが魔法の国を冒険し、最後にはカンザスの家へ帰る物語だ。どこかにあるはずの結婚や幸せを探しさまよう華子の姿は、まるで魔法の国をさまようドロシーのようである。蛇足だが、華子の最初期のお見合い相手、急にスマホで写真を撮り出す男。彼にも幸あれと願わずにはいられない。 青木を介して、華子は美紀と出会う。富山出身の美紀は猛勉強の末、慶應大学に合格するが、実家の経済的な理由から中退し、そのまま東京で働き始める。正月の実家や高校の同窓会からは、地方の閉塞感が漂っている。美紀はその壁を破ろうと、東京で懸命に生きているのだ。東京と地方で環境は違えど、その閉塞感には共通するものがあり、華子はそんな美紀に共鳴していく。 インドではカースト制度が根強く残っており、カーストを超えた結婚は難しい。お見合い結婚と恋愛結婚では、依然9割がお見合いとか。これはカースト=階級の純粋性の保持や、階級社会の秩序を守るためという理由があるそうだ。日本では恋愛結婚が主流のように見えるが、カーストほど顕在化していないだけで、階級の存在は確かにある。また、作中度々出るおひなさまは娘の幸せな結婚を祈る行事であるが、親としては暗黙に理想の幸せ=結婚を定める。誰かに定められ結婚。飾られた雛人形のお内裏様のように、毛布で包まれた華子と幸一郎の二人が印象的だ。 冒頭から華子の主な移動手段はタクシーであり、歩く姿はどこであれ誰かのエスコートが付く。しかし東京の街を軽やかに自転車で疾走する美紀との出会いを経て、華子は変化し始める。虚ろな眼差しだが、しかししっかりと自分の意思で足でひとりで街を歩き始める。

2025年2月23日 · APE

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』三宅香帆

「趣味は読書です。でも最近、仕事が忙しくて読めていない…」そんな思いを抱える多くの人を惹きつけ共感を呼びそうなタイトル。 筆者は、企業に就職した後、大好きだった読書ができなくなったと振り返る。作中では映画『花束みたいな恋をした』の登場人物になぞらえ、忙しい日々の中で読書よりもスマホでSNSやゲームに時間を費やしてしまう現象を指摘する。そして、「なぜ読書から離れてしまうのか?」という問いから本書は始まる。 明治以降の近現代史を振り返りながら、労働者階級における「読書」という行為の位置づけを紐解いていく。大正、昭和、平成、令和と社会状況を通して労働と読書を論じる。特に、現代のインターネットを介して膨大な情報が氾濫する情報化社会から冒頭の問いに。本書では、Webから得られる知識と比較し、読書から得られる知識には「ノイズ」が含まれると評している。しかし、その「ノイズ」こそが読書の魅力であり、一方で、現代の働き方にはその余白がなさすぎると指摘する。 また、上野千鶴子の『半身』を引用し、「読書を楽しめる程度の余裕を持てる働き方が理想ではないか」との考えを提示する。読書好きな筆者による、読書への愛情が詰まったラブレターのような一冊だ。ただ、文芸評論家が読書を奨励する様子は、まるでプロ野球選手が「もっと野球やろうよ!」と呼びかけるような、ある種の眩しさも感じさせる。さらに、多くの文学・評論作品を引用しながら筆者の読書愛が存分に語られるが、文芸評論家=読書を仕事にすることは、仕事と私生活の境界を曖昧にするのではないか――そんな視点も浮かんでくる。

2025年2月21日 · APE

『敵』吉田大八

一軒の日本家屋──そんな静かなショットから始まる。家主・渡辺儀助は、元大学教授の一人暮らし。朝起きて顔を洗い、身支度を整え、米を研ぎ、魚を焼き、ひとり黙々と食事を済ませる。食器を洗い、コーヒー豆を挽き、買い物へ。衣・食・住に至るまで、70歳を超えたとは思えない“キチンとした”暮らしぶりだ。几帳面なのか、丁寧なのか。その所作からは、かつてフランス文学を愛した教養人らしい清々しささえ漂う。淡々とした日常の奥には、不穏な気配が潜む。口座残高は減る一方で、「終わり」は確実に近づいているのだ。時折垣間見せる亡き妻への慕情には、しみじみとした哀愁がにじむ。 そんな折、儀助のMacに届く“迷惑メール”の中に、“敵”の存在がほの見え始める──。やがて、現実と虚構(あるいは夢)の区別が曖昧になり、亡き妻までが姿を現し、儀助と会話する始末。混濁した精神のまま、庭で原節子風の女性教え子に詰問されるシーンは圧巻。長塚京三の声でか細くも「申し訳ない」と呟かせる演出が、本作でもっとも心揺さぶられたハイライトだ。 後半から終盤にかけて、ついに“敵”が姿を現す。モノクロ映像から、色彩豊かな画面への転換、ロックオンショット、スローモーションによる銃撃描写──前半で効いていた抑制が一気に解き放たれる。老いという敵との闘いとも見えるが、一方で儀助の生活や葛藤は、この家屋が記憶する風景の再演であり、その霧のような中で繰り返される四季のループにも見えた。

2025年1月18日 · APE