<?xml version="1.0" encoding="utf-8" standalone="yes"?><rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom" xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"><channel><title>評論 on アアダコウダ</title><link>https://hugo.4dpkt.com/tags/%E8%A9%95%E8%AB%96/</link><description>Recent content in 評論 on アアダコウダ</description><generator>Hugo</generator><language>ja</language><lastBuildDate>Mon, 13 Oct 2025 13:35:32 +0000</lastBuildDate><atom:link href="https://hugo.4dpkt.com/tags/%E8%A9%95%E8%AB%96/feed.xml" rel="self" type="application/rss+xml"/><item><title>世界を変革する文学部ってカッコいい『「感想文」から「文学批評」へ: 高校・大学から始める批評入門』小林真大</title><link>https://hugo.4dpkt.com/kansoubun-bungaku-hihyo/</link><pubDate>Mon, 13 Oct 2025 13:35:32 +0000</pubDate><guid isPermaLink="false">https://aada-kouda.com/?p=213</guid><description>&lt;h3 id="はじめに"&gt;はじめに&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;ブログ等で批評文のようなものを書くにあたり参考書として読んだ。文学批評というものの型とその趨勢、批評の意義がまとめられた入門書。文学批評の歴史はまるで繰り返される抗争のような物語に感じられた。今後作品の批評を読み書きする際にどの観点なのか考えていきたい。また、最も興味深かったのは終章の批評の存在意義だ。文芸批評が社会の価値感を左右するという点は、下手をすると陰謀論的にもなり政治的にもなる活動だ。個人的には穏健なイメージのあった文学部の印象が変わって面白かったが、文芸批評を通してどんなイデオロギーに一票を投じているのかより意識的になる必要があると感じた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;語られる批評の型とは、作者と作品と読者において、どの角度からそれを評価するかによって6種類に分類される。以降概要をまとめる。&lt;/p&gt;
&lt;ol&gt;
&lt;li&gt;作家論（作者重視）&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;ニュークリティシズム（メッセージ重視）&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;読者論（読者重視）&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;構造主義（コード重視）&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;イデオロギー批評（コンテクスト重視）&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;メディアスタディーズ（接触重視）&lt;/li&gt;
&lt;/ol&gt;
&lt;h3 id="作家論"&gt;作家論&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;作家論は、作品を通して作家の意図を解析するアプローチ。近代の個人主義から始まったが、ロラン・バルトが「作者というのは幻想」と痛烈に批判。作品の意図を決めるのは作家ではなく、作品の言葉そのものであり、言葉の構造＝構造主義へと発展。一方、作品は社会的なイデオロギーに支配されているというイデオロギー批評、さらに作品の言葉を解釈しているのは読者であるという読者論。作家論の批判「作者の死」から様々な批評の型が生まれた。&lt;/p&gt;
&lt;h3 id="構造主義"&gt;構造主義&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;主に詩を対象としたニュークリティシズムという科学的な分析批評が40-50年代に隆盛し、60年代から個々の作品分析ではなく、あらゆる作品の共通したシステム（構造）を分析する構造主義が、ソシュールの言語学・記号論などをきっかけにはじまった。ロラン・バルトが物語の構造分析を発表し、従来の印象批評といった神秘的な領域に科学的な批評を導入、文学批評に多大な影響を与えた。しかし、ソシュール以降の構造主義は、文学作品の社会や歴史的な背景を無視しているという問題があった。&lt;/p&gt;
&lt;h3 id="イデオロギー批評"&gt;イデオロギー批評&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;ロシアの文学者ミハイル・バフチンが、ソシュールの理論が言語の規則にばかり注目していることを批判。言語は社会的状況と密接に結びついており、作品の背後にある利害や関心、イデオロギーを考えるきわめて政治的なアプローチである「イデオロギー批評」が生まれる。特に、作家の個人的な才能ではなく、当時の経済的、社会的階級、支配的イデオロギーが作品に反映されたものとみるマルクス主義批評が生まれるが、ソ連型といわれる硬直した考え方により退行。フランスの哲学者ルイ・アルチュセールなどによりポスト・マルクス主義へ発展していく。また、労働者階級のみに注目せず様々な社会的グループに目を向け、男女の視点からフェミニズム批評、民族の視点からポストコロニアル批評が生まれる。しかし、「労働者」「女性」「民族」という観点以外にもイデオロギー批評は当てはまるが、あくまで作品は作者の個人的な体験であり、ある集団のアイディンティティーを一般化するには限界があるという指摘もある。&lt;/p&gt;
&lt;h3 id="読者論"&gt;読者論&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;コンスタンツ大学のハンス・ローベルト・ヤウスは、マルクス主義の文学批評を、当時の社会状況を反映した部分のみの批評に過ぎず、過去の文学作品に心を揺さぶられる魅力を説くことができないと非難。作品自体やテクストに注意を向けていた従来の理論に対して、「読者」という存在に注目した読者論を主張。読者の「期待の地平」を破壊し、価値観を変化させるような作品を、ヤウスは文学的な価値が非常に高い作品とみなす。しかし、人は価値観の更新のみに比重をおいて読むわけではなく、いつも通りの安心感を求めて小説を読むこともある。「真の作者は読者である」と考えた結果、作品そのものを客観的に解釈しづらい批判を受けている。ただ、作品の意味を考えるとき、作品だけでなく、読者だけでなく、作品と読者のコミュニケーションを考慮に入れる気付きからメディア論が文学批評に導入されることになった。&lt;/p&gt;
&lt;h3 id="メディア論"&gt;メディア論&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;媒体や手段といった意味のメディア。テレビや新聞のマスメディア、SNSなどのソーシャルメディアなどがあるが、メディア論から文学批評の研究範囲が広がった。作品を読むにしても、本の装丁や文章のフォント、余白など出版メディアや編集者のまざまな意図、要素を読者は読み取る。そのためメディアは作家、作品、読者へ影響力を持つが、読者はいつも作者や出版メディアの思惑通りに作品を受け取っているわけではない。&lt;/p&gt;
&lt;h3 id="文学批評の存在意義"&gt;文学批評の存在意義&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;文学作品の好き嫌いは個人的なセンスの領域であれば、客観的な価値基準などそもそも存在しないのかもしれない。アメリカの哲学者ジョセフ・マーゴリスは、私たちの価値判断を「個人的なセンス」と「支配的なセンス」の二つのレベルに分けた。個人の好みである個人的なセンスを超えて、社会的に承認を得ている支配的な価値判断、つまり社会の多数派が下す評価を支配的センスとした。またそれは、社会の変化やと共に変わる続けるという点で、どこまでも「相対的」である。文学批評家の役割は、批評を通じて作品の価値を人々に伝え、その作品を支配的なセンスのレベルに高めることで、人々の価値観に不可逆的な影響を及ぼす。世界で初めて設立されたイギリスの文学部は、人々に特定のイデオロギーを植え付けコントロールしようという意図があった。批評家は文学作品の価値判断を行うことで、社会の価値観まで変えることもある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;最後に本書終盤の作家・丸谷才一の言葉から一部抜粋（P.231）&lt;br&gt;
『演奏家とは、楽曲が持っている美しい音色を、すぐれた演奏技巧で人々に伝えることを専門にしている人たちのことです。演奏家と同じように、批評家にも作品のすばらしさをより多くの人々に伝える役割がある。』&lt;/p&gt;</description></item><item><title>『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』三宅香帆</title><link>https://hugo.4dpkt.com/naze-hataraku-hon-yomenai/</link><pubDate>Fri, 21 Feb 2025 15:00:41 +0000</pubDate><guid isPermaLink="false">https://aada-kouda.com/?p=39</guid><description>&lt;p&gt;「趣味は読書です。でも最近、仕事が忙しくて読めていない…」そんな思いを抱える多くの人を惹きつけ共感を呼びそうなタイトル。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;筆者は、企業に就職した後、大好きだった読書ができなくなったと振り返る。作中では映画『花束みたいな恋をした』の登場人物になぞらえ、忙しい日々の中で読書よりもスマホでSNSやゲームに時間を費やしてしまう現象を指摘する。そして、「なぜ読書から離れてしまうのか？」という問いから本書は始まる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;明治以降の近現代史を振り返りながら、労働者階級における「読書」という行為の位置づけを紐解いていく。大正、昭和、平成、令和と社会状況を通して労働と読書を論じる。特に、現代のインターネットを介して膨大な情報が氾濫する情報化社会から冒頭の問いに。本書では、Webから得られる知識と比較し、読書から得られる知識には「ノイズ」が含まれると評している。しかし、その「ノイズ」こそが読書の魅力であり、一方で、現代の働き方にはその余白がなさすぎると指摘する。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;また、上野千鶴子の『半身』を引用し、「読書を楽しめる程度の余裕を持てる働き方が理想ではないか」との考えを提示する。読書好きな筆者による、読書への愛情が詰まったラブレターのような一冊だ。ただ、文芸評論家が読書を奨励する様子は、まるでプロ野球選手が「もっと野球やろうよ！」と呼びかけるような、ある種の眩しさも感じさせる。さらに、多くの文学・評論作品を引用しながら筆者の読書愛が存分に語られるが、文芸評論家＝読書を仕事にすることは、仕事と私生活の境界を曖昧にするのではないか――そんな視点も浮かんでくる。&lt;/p&gt;</description></item></channel></rss>